2010年10月29日金曜日

問屋を生み出した大坂〜大坂商人(武光誠〕

(P36)
●近年まで問屋は流通に欠かせなかった
●私(著者)が子供の頃、…丼池(どぶいけ)の問屋街に何度か行ったことがある。そのころに「素人お断り」の札や張り紙を出した店が多く見られた。当時の大阪の問屋街は極めて排他性の強い街だったように思う。
●江戸時代のごくはじめの頃の人々の生活圏は限られていた。…町に住む人は、近所の店を利用できたがそこに入ってくる品数はしれている。…小売商が商品を集める力にも限界がある。そこで庶民の身近な小売商に様々な品物をもたらす問屋が入れば大いに助かる。
→落語「千両みかん」の蜜柑問屋の主人の啖呵〔科白)は、大坂商人の心意気を示している。この噺、明治以降〔おそらく大正期)、東京に移植されたが、この啖呵を江戸の商人が切るところに違和感がある。落語には地域性があるのだ。
●このような発想は、大坂夏の陣の直後の大阪の町で生まれたと考えられている。文献に出てくる最初の問屋は、元和元年二年〔1616)に大坂にいた油問屋の加島屋三郎右衛門だとされている。…江戸時代はじめに大坂による商品流通の支配が続いた。現在それが崩れ始める大きな転換期にあたっている。元和年間(1615-23)から寛永年間(1640-)ごろにかけて、大坂で問屋による流通の支配が確立した。わずか25年ほどで、問屋と呼ばれる有力な商人たちが、流通経路を全て把握したのである。…それは驚くべき急速な変化であったろう。それと同じほど重要な転換が、これからの日本に訪れるかもしれない。
→かくて、新たなイノベーションは新たなサービスから始まる。
●大坂で問屋制が成立したことは、大坂の町が中央市場となったことを意味した。

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