2010年10月30日土曜日

低成長期に輩出した町人学者「懐徳堂」と「心学」〜「大坂商人」〔武光誠〕

私は大阪・関西の凋落の最大の原因は、文化教養の伝統、町人学者の伝統を捨て去ったことにあると思っている。特に最近その思いを強くしている。
しかもその凋落は昨日今日の話ではない。瞬間、大大阪の時期があったが、それもあくまで経済的な一時の繁栄に過ぎなかったのではないか。
凋落の要因を大別すると、第一は、元禄末期(!)以降の低成長期に商人が保守化を強めたこと、第二は、明治初期の銀本位制廃止と廃藩置県に対応できずに大半の上方の豪商が没落してスポンサーがいなくなったこと、第三は出版文化が育たなかったこと〔特に江戸後期以降〕であるように思う。今日、大阪を巡ってみて、改めて感じるのは、過去の深みのある文化は今は一生懸命探さなければならないほど小さな痕跡になっていることである。もちろん、だからといって卑下悲嘆する必要はない。その解決策もやはり過去にあるからだ。
(もちろん何も古典の教養を無理して身につけることを言っているのではない)

(P202)
●江戸時代の大坂商人は「天下の台所」に住む自分たちは日本で最も優れた文化を持つべきだとする自負を持っていた。そこで様々な習い事に身を入れた。中流の町人でも、茶の湯・花道・香道・日本の古典・謡曲程度の教養は身につけていた。…当時は花道は奥様の趣味ではなく、男の嗜みであった。このような大阪商人の生き方は、江戸の町人のそれと異なるものであった。江戸の豪商といえば、…紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門を思い浮かべる。彼らは、巨万の富を築き、吉原の遊郭でお大尽遊びをした。…大阪人ならそのような度を過ごした無駄遣いはしなかったろう。そして、とことん利益を追求するより、程々に金儲けをして文化を求めた。…
→さすがにこのへんは著者の大阪びいきが強すぎる感じがする。
→落語「稽古屋」は職人階級(おそらく棟梁クラスが中心〕が女性に持てるキーアイテムとしていろんな音曲の稽古をした当時の様子が描かれている。「寝床」もそうで、特に大正期には義太夫が流行した。大阪は文楽の本拠地だったので、ことのほかブームだったようだ。先日入った「大阪歴史博物館」にも帰宅後のサラリーマンの稽古の様子が展示してあった(ただし、あの博物館全体に言えることだが、説明文が薄くて観客に展示の趣旨が伝わりにくいうらみがあるが、これは閑話休題〕。

●商人に学問を広めた三宅石庵→懐徳堂(大阪淀屋橋・今橋4丁目)
享保9年(1724年)、大阪の町は大火によってほとんど焼き尽くされた。その時、大阪の有力者は災害によってすさんだ大阪人の心を明るくするために文化事業を行なおうとした。そのため、彼らは当時は尼崎と言われた大阪の中心地に、大掛かりな学校をつくった。
※古代は海人(あま・漁民)が住んでいた岬なので尼崎(あまがさき)

●町人の塾が(幕府に)公認されたのは初めてだった(享保11年・1726年)。町人は高度な学問を身につける場はなかったのだ。寺子屋は子供の手習いと軽く扱われていた。しかし三宅石庵は幕府公認をそれほど喜ばなかった…町人のために質の高い教育の場があれば、形式上のことはどうでも良いと、彼は他人事のように語ったという。…石庵は士官を求めなかった。彼は「反魂丹」を売って生活していた。…懐徳堂の塾則には、「書生のまじわりは、貴賎貧富を論ぜずに、すべて同輩としてふるまうように」とあった。
●大阪人の風流ごのみの気質にもとづく学問を愛する気持ちが懐徳堂を支え続けた。江戸にも京都にも、特定の学派に偏らず庶民に実用的学問を教える有力な学校は生まれなかった。懐徳堂は明治2年(1869年)まで続いた。そしてそこは常に大坂町人の学問の中心であった。
●塾では、それまでの儒学で卑しいこととされた商行為を「聖人の道」であると説いた。空理空論を唱えるより、人々の生活をより豊かにするように励むべきだというのだ。金儲けは自分のためだけにするものではない。商売で集めた金を、多くの人を救う有効な事業に充てるべきだとも言われた。

(P151)
●元禄時代の大坂の繁栄がかげりを見せ始めた頃、心学が広まった。これは大阪の経済が低成長期に入った中で、人々が精神的な深みを求めたことによる
(P209)
●ところで、懐徳堂の学問より更に日常生活に深く関わったものが心学である。
●文明がいくら進んでも「堪忍」と「律儀」という江戸時代の大坂の人々が重んじた生き方は、大切にしたいものである。…大坂商人の「堪忍」を重んじる倫理の元をたどると、心学に行き着く。それは、18世紀初めに京都の石田梅巌(梅岩)が始めたものである。梅巌は、儒学、仏教、神道、道教などの説を取り入れて、町人に対して世渡りの方法を説いた。…梅巌が商業の必要性を強く主張したことが重要である。かれは、武士の商人蔑視を正面から批判した。
「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」

(P211)身分制度の不条理が生んだ思想
●徳川吉宗は「堪忍」の政治を行った人物として当時の人々に慕われた。しかし、「堪忍」の中身を見ると、吉宗のそれは大坂商人のものに比べてかなり自分勝手な解釈に基づくものとなる。かれは…その場しのぎのごまかしをすべきでないことを強調し、政治上の課題はどれほど苦労しても根本的に解決せよと教えた…。しかし、この言葉は将軍の地位にあってはじめていえる…
※吉宗の「堪忍」は贅沢を控える程度のことが「堪忍」になってしまう。これは「ならぬ堪忍」とは言えない。


一介の町人あらば、筋の通らぬことと知りながら、商取引などで相手との妥協点を見つけなければならない…そうしたとき、自分の思い通りにならなくても「堪忍」することになる。
●江戸時代の町人の「堪忍」は、第一に「士農工商」という言われない身分制度から来る差別に耐えることであった。…実際には武家社会で一人前にふるまうためには、たいそう気配りが必要なのだが、そんなことは大坂の町にいる限りわからない。大坂には、地方から遊びに来て思い切り羽目を外す武士が多く見られた…
→上方落語には、江戸落語の「たがや」「巌流島」「首提灯」に代表されるような武士とあからさまに対峙する噺はみかけない。「胴斬り」にしてもいきなり無礼討にされるが、武士に対して江戸の「首提灯」のように啖呵の鮮やかさが際立つわけではない。一方で、「井戸の茶碗」や「雛鍔」「目黒のさんま」「妾馬(めかうま:※妾が使えないので、NHK向けに八五郎出世と改題された。※大西信行氏も言っているが、それにしても野暮な演題だ)」のような武士を肯定的に描く噺も見当たらない。これはやはり大坂での武士の数が少なく、リアリティがなかったこともあろうが、一方で、他の文献にもあるが、大坂の豪商の内部のヒエラルキーが武家社会を真似した封建的で硬直的だったことも起因しているのかもしれない。これについては、別の機会で改めて論じる。

●「商いは牛のよだれ」という言葉もある。細く長く堅実に店を続けていくことが町人の誇りだというのだ。大儲けしてお大尽遊びをしようと投機に手を出すことは、最も好ましくないと考えられた。
→落語「莨(たばこ)の火」は、上方で珍しく元禄時代の紀文並みにお茶屋で小判撒きをする噺である。これまで多くの演芸評論家は、上方落語屈指の「大ネタ(ブリネタ)」としてこの噺を挙げてきた。しかし、先代の染丸師匠が遺した録音を聞いても、評論家諸氏が言う「奥行き、スケールの広さ」は申し訳ないが感じ無かった。これは演者によるというよりも、著者が述べるように、大阪の商家がもともとギルド的な閉鎖性を持ち、出過ぎたことを自重するシステムになっていたとすれば、もともと、噺として上方の気風にさほどそぐわない、やりにくいところがあり、それを無理なく聴かせるのに相当の力量を必要としたため、結果的に大ネタになってしまったという背景があるのではないか、と推測している。第一、「莨の火」の主人公は食野(めしの)佐太郎という実在の泉佐野の豪商で紀州徳川藩や岸和田藩を上得意にしていたが、あくまで大坂ではなく和泉国の商人であり、また紀州いうことで紀文の代わりにモデルに設定されたのではないか、と思っている。
※もっとも現実の食野家は、楠木正成を遠祖に持つと言われ、今の大阪市街に有していた膨大な不動産の経営や海運業を本業としていた。泉佐野身は今も、彼らが有した「いろは四十八蔵」という数多くの建物を持っていた。
http://www.sanomachiba.jp/about1.html

●ところが、江戸時代末になると、武家の勢力が衰え、商人が誇りが持ち始めてくる。天保6年(1835年)に(懐徳堂の)中井竹山が出した次の教えが伝わっている。「堪忍のなる堪忍が堪忍よ。ならぬ堪忍せぬが肝心」かれは「堪忍」の大切さは知っていたが、町人が必要以上に卑屈な態度を取るべきではないと言っているのだ。まもなく明治維新の四民平等の時代が訪れ、中井竹山のような考えが当然のものと受け取られるようになっていった。
→当初の「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」から「堪忍のなる堪忍が堪忍よ。ならぬ堪忍せぬが肝心」への変遷。この意識の変遷にこそ、長州の奇兵隊を始め、武家社会の崩壊をソフトランディングさせ、明治維新にスムーズに移行できた鍵があるのかもしれない。

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