2010年10月24日日曜日

道空間のポリフォニー(音羽書房鶴見書店)


12交差空間とイギリスの道(坂田正顕)~六道の辻...(P293)
【引用箇所】
●道は交わり分岐する。復活したイエスは、「光の道」を選び「闇の道」を回避したと言われる。フランス語で「よい旅を(ボンボヤージュ)」はもともと「良い道を(ボンボワー)」に由来するとの説もある。道は道にリンクし、その多くは交差する得意な空間を作る。
●道と道(または閉ざされた敷地)が交わることにより生じる特異な水準にある空間(交差空間)について,日本の六道の辻とイギリスの道を事例に考えてみる。
●辻ができれば,辻に立脚した視点が生まれ、これまでの単調な線的道空間にこれを分節する足場が与えられることになる。であるからこそ、辻わざ、辻占い、辻強盗、辻斬り、辻相撲、辻講釈、辻説法、辻行灯、辻堂など一連の「辻現象」とでも言うべき特異な諸現象が辻なる交差空間を視点に分節化されることになる。
●かつての「辻」は非日常的な力が強く働く場としての特異な境界的空間として存立していた。彼岸と此岸、生と死、日常と非日常、昼と夜、安全と危険、運命と偶然等々が相互に融合したり、分化したりする場が「辻」である。
●異界の文化と日常文化とが拮抗する空間であり、夕暮れ時の辻は、時間的にも空間的にも日常/非日常の境界線に位置する不安定極まりない時空間であった。
【メモ】
→大阪・四天王寺の彼岸に西門(さいもん)から望む夕日は、かつて病を背負った人が拝んだ風景であり、まさに中世の説経節「さんせうだゆう」「しんとくまる」「おぐり」から、能/歌舞伎/落語につながる「道」の心象風景である。
まさにここでは、道は彼岸と此岸を一直線に結ぶ装置なのだ。
→このこと一つをとっても、「落語が物語を捨てられるか」という矢野誠一氏の問いに対して、例え談志師匠を中心とした業の肯定・人間本来に根ざした笑いの重要性を十分理解した上からも、私は「捨てられない。少なくともとても全ては捨て去れない」と答える。
→即ち、落語が説経節などの民間芸能に源流を持つ藝能として、あの明治の巨匠三遊亭円朝が、道具を林家正蔵に譲って、いわゆる扇子と手拭いと己の舌先三寸だけで表現しようと覚悟し、新派のような風を浴び、山岡鉄舟等の導きにより無舌の悟りを得た後も、連綿と続く中世からの「ものがたり」の系譜からは我が身をそらすことがなかったと、改めて私は確信した。落語はコメディーにもパフォーマンスにもなれないのである。


●他方、辻もない一本道での移動者は、前進するか後退するかのいずれかの動作をとるのみである。
●移動機会が極端に制限された閉鎖的文化や時代にあっては、辻的空間や分かれ道は、非日常的な得体のしれない諸世界に通じる危険な境界性を濃密に持った空間であったに違いない。しかし、今日、こうした辻空間は消え行く運命にある。
●たとえば、「六道の辻」。三つの道が一点で交差すれば、この交点を視点にして六方向に開かれた交差空間としての辻が出来上がる。六道辻の成立である。この幾何学的空間はそれ自体視覚的にも珍しい非日常的な風景を作り出しているだろう。
●この六つの道が、それぞれ六道の冥界に通じていると考えられたり、これに擬えたりされたことは少しも不思議ではない。
●配置のブードゥー教では、メグバ神やメットカフー神が街道・扉・運命を司り、街道や十字路に潜んでいると考えられている。

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