2010年10月25日月曜日

ふるさと資源化と民俗学(岩本通弥編)吉川弘文館→民俗学者による政策批判

【コメント】
◯「ふるさと」を資本の論理で観光資源として費消することについて民俗学の立場から鋭く指摘している。特に、「ふるさと」は人為的に作られたものであり、主導権も自主性も「ふるさと」側にあるわけではないことは、地域振興として「ふるさと」を扱うことの危うさを示している。
◯この指摘を敷衍すると、たとえば、最近ブームとなっており私自身も参加する機会の多い様々な歴史探訪やレトロ街歩き、古典落語と文献渉猟といったことに、自意識を持ってどう向き合うか、考えさせられた。

[序]
●今、着目されている「ふるさと」とは,自身や父祖の生まれ育ったところではない。端的にいってしまえば、いわば他人のふるさと(故郷)を,自らのふるさとと捉えるような感性から生起してくる「ふるさと」である。
●たとえば,世界遺産の白川郷に観光客が大挙して訪れて,あたかも自らもそれを共有しているかのように眺める感覚や現象であり、また各地の山間観光地にしばしば冠される「日本人の心のふるさと」といったフレーズに、さほど違和感を抱かないような、私たち現代人の感性や認識である。集合的でノスタルジックなそれは、ナショナルなレベルの「ふるさと」だとも言って良い。
●美しく手入れされた景観の中で、そこで暮らす人間味にあふれた人々との温かい交流というのが、ここにある「ふるさと」イメージであり、かつ期待されている「ふるさと」像である。だが、それは、あるいは農からはるかに離れた都市住民の。生活感覚から理想化されたバーチャル世界の光景であるかもしれない。
●(ドイツ)民俗学では、…一見、素朴なものに、現代人がノスタルジーや伝統らしさを覚える感性や現象を、フォークロリズムと呼んできた。…現代の都市生活者はなぜ素朴な田園風景に憧憬を感じるのか、その一方で、地方はなぜ表面的に素朴さを装い、伝統らしさを演じるのかといった問題を問いかける
●ここ数年、「ふるさと」を資源化する試みが、政策的にも強く推し進められ、マスメディアや大手資本も巻き込み、「ふるさと」やいわゆる民族文化を賛美、商品化する傾向が加速度的に増している。全国各地で繰り広げられる世界遺産の登録運動や、棚田に象徴される文化的景観の保全運動をはじめ、スローライフやスローフード(地産地消)、昭和レトロや様々な癒しブームなど、どこか懐旧的な色彩を帯びた諸現象が、同時並行的に現出化している。
●全体的なベクトルは、文化財や地域固有財を観光化に資することで、地域振興を経済的に図ることを強烈に志向している。
●今日的情況は、文化財保護という名の下での観光開発が始動したのであり、より問題なのは、施策の目標となっている中山間地は、これまで観光化には不向きな立地条件にあり、ほんの一部を除いて人々の生業も観光業とは関わりのない、第一次産業を基盤とした地域だという点である。

【文化という名のもとに】
「文化」が地方/地域社会に与えた二つの課題
(1)地方はもっと「文化的」でなければならない
※この場合「文化=西洋文明を目指すべきもの」であり、これまで、地方の文化は否定され、駆逐され、あるいは矯正された。地方改良運動=豊かな物質文化の意識。
(2)地域社会は「文化」を保存しなければならない
→上記の(1)で否定しながら、「文化を売り物にする」戦略に則り、(2)では伝統文化を保存しようという矛盾。しかし、地方には保存すべき文化を存立させる自主性が失われたところも多い。経済的格差に起因する若年層の流出、それに伴う地域経済/コミュニティ崩壊の危機である
→先日「街歩き」した大阪の南堀江では、難波神社御旅所の神輿巡行が、都市中央部の人口減少による担ぎ手の不足以前に、道路交通の妨げになるという理由で警察に認められないために何十年も前に途絶えた。今更復活してもそれは継承されてきた祭りではなく、団地で新たに「賑わい」を求めて創作された「祭り」に過ぎない。文化を観光にする危うさの一例である

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