2010年10月31日日曜日

柳田民俗学のバイアス〜声の国民国家

(P88)
●チョンガレやデロレン祭文などの物語芸能は、近代の浪花節の中に発展的に吸収・解消されていく。だが、近代にはいって、流行した浪花節に対して、近代以前に地方伝搬していたチョンガレや祭文は、しばしば盆踊りの音頭・口説と集合して、土地に根付いた形で伝承される地域が少なくない。チョンガレ、祭文、踊り口説などが、しばしば市町村史類の民俗編などに取り上げられる理由だが、しかし近世に流行したそれらの物語芸能を、郷土芸能・民俗芸能といったローカルな枠組みでとらえることは、問題の重要な側面を見落とすことになる。かつて全国規模で流通したチョンガレや祭文は、民俗(フォークロア)研究のバイアスを取り払って考察される必要がある。

(P90)都市的な大衆芸能
●デロレン祭文は、浪花節とセットして考察されるべき近世・近代の物語芸能である。それは、柳田国男がイメージしたような中世の山伏祭文などに直結する芸能というより、幕末期に全国展開したきわめて都市的な大衆芸能だった。
●…柳田の関心は、物語の内容には向かっても、それを語る祭文の芸そのものには向かわない。昭和10年代当時は、山形県にプロの祭文が足りが盛んに活動していたが、しかし同時代的な声の世界に無関心なのは、柳田の「口承文芸」研究の特徴だった。柳田がその民俗学的な「口承文芸」研究の大正から、浪花節とその隣接芸能を周到に排除していた。
●山形県で行われたデロレン祭文は、決して山形方言では語られない。また、奈良県や三重県のデロレン祭文も、奈良・三重の方言では語られない。祭文の語りに使用される言葉は、講談や浪花節にも共通する一種独特の語り口調である。…旋律を持たないコトバの部分も。邦楽研究者の言う「吟踊(講談口調の語り)」であって、日常口調とは違う発声が行われる。
●芸人(非常民)の声によって伝搬・流通する物語を通して、地域や階層を超えた日本社会の文化的なアイデンティティが形成されていく。それは…日本近代の「国民」国家が形成される前提条件ともなる…。

都市高等遊民の誕生〜「大阪のスラムと盛り場」加藤政洋

◉(P192)消費される都市空間〜遊歩者たちの足どりと語り
1920年代の盛り場は、もはや江戸時代の悪所を彷彿とさせるような場所ではなく、映画館やカフェーを中心に…様々な消費施設が集まって、現在にも通じる盛り場独特の風景を創り出し、大衆文化の開花とともに20世紀を通して最も華やぐ時期を迎えていた。このことは、東京浅草、名古屋大洲、神戸新開地、大阪千日前・道頓堀などの旧来の盛り場に限られたことではない。
◉というのも、…盛り場・商店街のぶらぶら歩き(遊歩)が全国各都市で大流行し、夜ともなれば中心商店街はまさにその舞台として。都市民が埋め尽くす歓楽の巷となっていたからである。
◉遊歩という空間的な実践によって都市空間を消費する民衆の営みを…文化と呼ぶ…ならば、民衆は…商店街や盛り場を舞台として独自の文化を創造していた…
*(P193まとめ)商店から商店街へ、百貨店の登場(座売り→陳列売り、正札売り)、町屋式店舗(間口狭く奥行きがある)→部分的にショーウィン度ー設置、顧客ばかりの商い→都市大衆という不特定多数相手の商いへ
*商店→商店会の組織化、催事運営・陳列方法の統制、街燈・辻灯、共同日覆い設置→商店街にまとめ上げる
*(P200)芝居茶屋の衰退をともなう道頓堀の映画館への変貌→伝統的芝居街という歴史的場所性を解体→カフェー進出の下地
*カフェーの変遷:当初はインテリ層が集まるサロン的雰囲気の場→高等遊民が消費する大衆的な空間としての喫茶店へ

◉(P209)路地という空間を発見した人物の一人として織田作之助をあげることができる…
(P212)近代大阪を象徴する都市景観…「強烈な電飾とジャズの強烈な電飾とジャズの狂躁曲を浴びせかけ」る道頓堀、…「心斎橋筋の光の洪水」が…「大阪的な」ものとしての「路地」を「発見」せしめた…

◉(P213)都市を歩くこと。それは、我々が自己の地理的想像力によりながら、新たな都市の空間性を、そして新たな主体性を創造・想像することにつながる…

地域寄席・東明寄席開催決定(12月4日)


来る12月4日に例年通り「東明寄席」を開催します!

かつての柳笑亭の流れをくみ、
四半世紀にわたる歴史を持ち、
阪神淡路大震災の被災にもめげず、
地元・神戸御影東明地区の皆さんのご好意で続けている地域寄席です。

【日 時】12月4日(土)18:45〜20:30
【場 所】東明会館(阪神電車・石屋川駅すぐ)
【木戸銭】300円
【出演者】(出演順)
 森乃石松(二代目 森乃福郎門下)
 旭堂南湖(三代目 旭堂南陵門下)
 桂 米左(三代目 桂 米朝門下)
 旭堂南鱗(三代目 旭堂南陵門下)

2010年10月30日土曜日

風俗史、世相史、文化史になぜ傾斜したか〜「大阪商人」宮本又次

(宮本又次「私の研究遍歴」)
●混濁渦巻ける大阪の巷が醸しだす不思議なる魅力、それは脈々と尽きぬ生命力といえるであろう。権威におもねらず、自ら頼み、自ら助くるひたぶるの町人心こそ大阪人の生命である。

(宮本又次「大阪商人」序)
●所詮歴史は人間の歴史であって、それ以外の何ものでもない。人間を忘れ、社会機構のからくりの分析に終始した、あまりにも経済史的な経済史に、ようやく飽きたらぬものを感じ取った…社会構成史的なものの見方や機械論的観念や決定論的なものの考え方よりも、人間を常に念頭に置かなければなるまい。対立論的な階級の観点を捨象して、およそ生きとし生くる者の努力や精進に、そしてその哀歓に人間生活の実相を窺いたい

(宮本又郎〜解説「おおさかもの」の背景)
●戦後の日本の歴史学、経済史学ではマルクス主義、唯物史観の影響もあって…大阪、大阪商人の性格についても…当時はまだ講座はや大塚史学が盛んであり、「近世大阪は天領として、市場は封建規制下にあり、特権商人であった大阪町民は「市民」ではなく、近代資本主義の担い手にに成り得なかった」といった趣旨の学説が支配的であった。これに対して又次は、「大阪=天下の台所の天下は、幕府や藩の領国ではなく、いわば封建支配の真空地帯的性格を有しており、そこではかなりの程度、市場の原理が機能していた。江戸中期の大阪町人は市民に近似する存在であった」とのアンチテーゼを唱えていた。

落語は細部が重要〜「江戸の気分」堀井憲一郎

(P232)
◉落語は土地のものだ。はっきりいえば、大阪と京都の対立なんぞは、大阪と京都の人以外はどうでもいいつまらない話題だ。…それ以外のエリアの人はどうでもいいだろう。ただ、落語というのは、その内容そのものがどうでもいいものも多く、細かいどうでもよいところを飛ばしてしまうと、落語そのものが成り立たなくなる。だから、こういうなんでもないところが大事になってくる。
◉落語は、その土地で聞かないと意味がないと思うのは、、こういうところである。京大坂の対立の説明をすれば、他の地の人にも背景はわかってもらえるだろう。でも、何とも言えないおかしみは共有できない。土地が持ってる空気は感じられない。…土地の空気を背景に、いくつもの噺が語られている。
◉落語の芯にある「人間の業」の部分は、どこであっても通用するが、細かいところは土地の人間にしかわからないようにできている。江戸の昔、人が今ほど動く訳ではなく、お噺を聞くにはその小屋に出向くしかなかった。そういう時代の芸能である。…その土地の人たちで楽しむ芸能なのだ。
(P240)
明治政府が必死でやったことは「日本がひとつの国であることをみんなで信じることだった。…いまの世は、なるたけいろんな世界を巻き込んでよこうとする。…高度資本主義社会は、社会的弱者をきれいにまとめてやんわりと社会の外側へと追いやっていますね。
→地方の疲弊、画一化が叫ばれて久しい。最近では東京とそれ以外の地域に分けられていると言う人もいる。

低成長期に輩出した町人学者「懐徳堂」と「心学」〜「大坂商人」〔武光誠〕

私は大阪・関西の凋落の最大の原因は、文化教養の伝統、町人学者の伝統を捨て去ったことにあると思っている。特に最近その思いを強くしている。
しかもその凋落は昨日今日の話ではない。瞬間、大大阪の時期があったが、それもあくまで経済的な一時の繁栄に過ぎなかったのではないか。
凋落の要因を大別すると、第一は、元禄末期(!)以降の低成長期に商人が保守化を強めたこと、第二は、明治初期の銀本位制廃止と廃藩置県に対応できずに大半の上方の豪商が没落してスポンサーがいなくなったこと、第三は出版文化が育たなかったこと〔特に江戸後期以降〕であるように思う。今日、大阪を巡ってみて、改めて感じるのは、過去の深みのある文化は今は一生懸命探さなければならないほど小さな痕跡になっていることである。もちろん、だからといって卑下悲嘆する必要はない。その解決策もやはり過去にあるからだ。
(もちろん何も古典の教養を無理して身につけることを言っているのではない)

(P202)
●江戸時代の大坂商人は「天下の台所」に住む自分たちは日本で最も優れた文化を持つべきだとする自負を持っていた。そこで様々な習い事に身を入れた。中流の町人でも、茶の湯・花道・香道・日本の古典・謡曲程度の教養は身につけていた。…当時は花道は奥様の趣味ではなく、男の嗜みであった。このような大阪商人の生き方は、江戸の町人のそれと異なるものであった。江戸の豪商といえば、…紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門を思い浮かべる。彼らは、巨万の富を築き、吉原の遊郭でお大尽遊びをした。…大阪人ならそのような度を過ごした無駄遣いはしなかったろう。そして、とことん利益を追求するより、程々に金儲けをして文化を求めた。…
→さすがにこのへんは著者の大阪びいきが強すぎる感じがする。
→落語「稽古屋」は職人階級(おそらく棟梁クラスが中心〕が女性に持てるキーアイテムとしていろんな音曲の稽古をした当時の様子が描かれている。「寝床」もそうで、特に大正期には義太夫が流行した。大阪は文楽の本拠地だったので、ことのほかブームだったようだ。先日入った「大阪歴史博物館」にも帰宅後のサラリーマンの稽古の様子が展示してあった(ただし、あの博物館全体に言えることだが、説明文が薄くて観客に展示の趣旨が伝わりにくいうらみがあるが、これは閑話休題〕。

●商人に学問を広めた三宅石庵→懐徳堂(大阪淀屋橋・今橋4丁目)
享保9年(1724年)、大阪の町は大火によってほとんど焼き尽くされた。その時、大阪の有力者は災害によってすさんだ大阪人の心を明るくするために文化事業を行なおうとした。そのため、彼らは当時は尼崎と言われた大阪の中心地に、大掛かりな学校をつくった。
※古代は海人(あま・漁民)が住んでいた岬なので尼崎(あまがさき)

●町人の塾が(幕府に)公認されたのは初めてだった(享保11年・1726年)。町人は高度な学問を身につける場はなかったのだ。寺子屋は子供の手習いと軽く扱われていた。しかし三宅石庵は幕府公認をそれほど喜ばなかった…町人のために質の高い教育の場があれば、形式上のことはどうでも良いと、彼は他人事のように語ったという。…石庵は士官を求めなかった。彼は「反魂丹」を売って生活していた。…懐徳堂の塾則には、「書生のまじわりは、貴賎貧富を論ぜずに、すべて同輩としてふるまうように」とあった。
●大阪人の風流ごのみの気質にもとづく学問を愛する気持ちが懐徳堂を支え続けた。江戸にも京都にも、特定の学派に偏らず庶民に実用的学問を教える有力な学校は生まれなかった。懐徳堂は明治2年(1869年)まで続いた。そしてそこは常に大坂町人の学問の中心であった。
●塾では、それまでの儒学で卑しいこととされた商行為を「聖人の道」であると説いた。空理空論を唱えるより、人々の生活をより豊かにするように励むべきだというのだ。金儲けは自分のためだけにするものではない。商売で集めた金を、多くの人を救う有効な事業に充てるべきだとも言われた。

(P151)
●元禄時代の大坂の繁栄がかげりを見せ始めた頃、心学が広まった。これは大阪の経済が低成長期に入った中で、人々が精神的な深みを求めたことによる
(P209)
●ところで、懐徳堂の学問より更に日常生活に深く関わったものが心学である。
●文明がいくら進んでも「堪忍」と「律儀」という江戸時代の大坂の人々が重んじた生き方は、大切にしたいものである。…大坂商人の「堪忍」を重んじる倫理の元をたどると、心学に行き着く。それは、18世紀初めに京都の石田梅巌(梅岩)が始めたものである。梅巌は、儒学、仏教、神道、道教などの説を取り入れて、町人に対して世渡りの方法を説いた。…梅巌が商業の必要性を強く主張したことが重要である。かれは、武士の商人蔑視を正面から批判した。
「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」

(P211)身分制度の不条理が生んだ思想
●徳川吉宗は「堪忍」の政治を行った人物として当時の人々に慕われた。しかし、「堪忍」の中身を見ると、吉宗のそれは大坂商人のものに比べてかなり自分勝手な解釈に基づくものとなる。かれは…その場しのぎのごまかしをすべきでないことを強調し、政治上の課題はどれほど苦労しても根本的に解決せよと教えた…。しかし、この言葉は将軍の地位にあってはじめていえる…
※吉宗の「堪忍」は贅沢を控える程度のことが「堪忍」になってしまう。これは「ならぬ堪忍」とは言えない。


一介の町人あらば、筋の通らぬことと知りながら、商取引などで相手との妥協点を見つけなければならない…そうしたとき、自分の思い通りにならなくても「堪忍」することになる。
●江戸時代の町人の「堪忍」は、第一に「士農工商」という言われない身分制度から来る差別に耐えることであった。…実際には武家社会で一人前にふるまうためには、たいそう気配りが必要なのだが、そんなことは大坂の町にいる限りわからない。大坂には、地方から遊びに来て思い切り羽目を外す武士が多く見られた…
→上方落語には、江戸落語の「たがや」「巌流島」「首提灯」に代表されるような武士とあからさまに対峙する噺はみかけない。「胴斬り」にしてもいきなり無礼討にされるが、武士に対して江戸の「首提灯」のように啖呵の鮮やかさが際立つわけではない。一方で、「井戸の茶碗」や「雛鍔」「目黒のさんま」「妾馬(めかうま:※妾が使えないので、NHK向けに八五郎出世と改題された。※大西信行氏も言っているが、それにしても野暮な演題だ)」のような武士を肯定的に描く噺も見当たらない。これはやはり大坂での武士の数が少なく、リアリティがなかったこともあろうが、一方で、他の文献にもあるが、大坂の豪商の内部のヒエラルキーが武家社会を真似した封建的で硬直的だったことも起因しているのかもしれない。これについては、別の機会で改めて論じる。

●「商いは牛のよだれ」という言葉もある。細く長く堅実に店を続けていくことが町人の誇りだというのだ。大儲けしてお大尽遊びをしようと投機に手を出すことは、最も好ましくないと考えられた。
→落語「莨(たばこ)の火」は、上方で珍しく元禄時代の紀文並みにお茶屋で小判撒きをする噺である。これまで多くの演芸評論家は、上方落語屈指の「大ネタ(ブリネタ)」としてこの噺を挙げてきた。しかし、先代の染丸師匠が遺した録音を聞いても、評論家諸氏が言う「奥行き、スケールの広さ」は申し訳ないが感じ無かった。これは演者によるというよりも、著者が述べるように、大阪の商家がもともとギルド的な閉鎖性を持ち、出過ぎたことを自重するシステムになっていたとすれば、もともと、噺として上方の気風にさほどそぐわない、やりにくいところがあり、それを無理なく聴かせるのに相当の力量を必要としたため、結果的に大ネタになってしまったという背景があるのではないか、と推測している。第一、「莨の火」の主人公は食野(めしの)佐太郎という実在の泉佐野の豪商で紀州徳川藩や岸和田藩を上得意にしていたが、あくまで大坂ではなく和泉国の商人であり、また紀州いうことで紀文の代わりにモデルに設定されたのではないか、と思っている。
※もっとも現実の食野家は、楠木正成を遠祖に持つと言われ、今の大阪市街に有していた膨大な不動産の経営や海運業を本業としていた。泉佐野身は今も、彼らが有した「いろは四十八蔵」という数多くの建物を持っていた。
http://www.sanomachiba.jp/about1.html

●ところが、江戸時代末になると、武家の勢力が衰え、商人が誇りが持ち始めてくる。天保6年(1835年)に(懐徳堂の)中井竹山が出した次の教えが伝わっている。「堪忍のなる堪忍が堪忍よ。ならぬ堪忍せぬが肝心」かれは「堪忍」の大切さは知っていたが、町人が必要以上に卑屈な態度を取るべきではないと言っているのだ。まもなく明治維新の四民平等の時代が訪れ、中井竹山のような考えが当然のものと受け取られるようになっていった。
→当初の「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」から「堪忍のなる堪忍が堪忍よ。ならぬ堪忍せぬが肝心」への変遷。この意識の変遷にこそ、長州の奇兵隊を始め、武家社会の崩壊をソフトランディングさせ、明治維新にスムーズに移行できた鍵があるのかもしれない。

西鶴の教訓〜「大坂商人」(武光誠)

(P193)
●江戸時代はじめに「長者教」という書物が出版されている。商人としての心得をあれこれ記したもので、大坂の人の間で広く読まれた。西鶴はその後を受けて、彼の時代にあった「新長者教」として「日本永代蔵」を書いたと言われている。「長者教」は儒教道徳を踏まえたものだった。
●たとえば長者教には次のような文章がみえる。「金持ちになりたい、金を儲けたいという望みを叶えるためには、日頃の心がけが大切である。たとえ、一厘も持たなくても、長者になりたいと思って努力すれば、きっと長者になれる」これは、真面目に働くものは必ず報われるという一般論にすぎない
●そして、西鶴はそのような無責任な表現をとらなかった。彼は、金が金を生むのだから、貧乏人が成り上がるのは容易ではないことを知り抜いていた。そのため、次のような文章を記している。「ただ、金が金を貯める世の中である。」「貧者はいつまでたっても貧しく、分限〔金持ち)は分限のままである」
→落語「商売根問」とそれを導入部として「金釣り」「鷺取り」「天狗さし」等が古典落語として今でも盛んに演じられているのも、「楽して儲けたい」という長者教レベルの願いがいかに強く、しかもその実現がいかに難しいかを証明している。

西鶴の作品の木版本の中で、今日最も残存部数の多いものが「日本永代蔵」である。そのことは、江戸時代の人がその作品に特別の思いを寄せていたことを物語る。「好色一代男」などは、物語の結末を知ってしまえば不要になる。しかし「日本永代蔵」の中には、読めば読むほど深みを増す教えが多く盛り込まれている。「日本永代蔵」から生き方のヒントを得た親は、子供たちにそれを読ませたいと思った。そのため「日本永代蔵」…が捨てられずに家に伝えられた。
西鶴は「日本永代蔵」で浪費と情報なしの見込みによる商売は家を滅ぼすものだという。この考えは、現代にも当てはまるものであろう。
→今日でも「やればできる」「願えば願いは叶う」として中身は単なる一般論しかない、何の具体的解決にもならないビジネス書が散見される。また性懲りも無く次から次と産み出されている。これらはただの長者教である。そんなものを読むよりは、遥かに西鶴の「永代蔵」「胸算用」「置土産」等〔特に永代蔵〕は教えられるところが多い。だからこそ発行部数が少なかった当時から数百年たっても残っている。その事自体がそれを物語る。

大坂の豪商たち〜「大坂商人」(武光誠〕

(P100)
●…まもなく産物の売りさばきをすべて淀屋に委ねる大名が出てきた。藩士が売るより遥かに高い値で、淀屋がそれをさばくからだ。
→「官から民へ」ということか
●蔵屋敷の運営を任された大商人は「蔵元」と呼ばれた。その呼び名は、ただ一人で広大な蔵屋敷を取り仕切る、元締めという意味の敬意のこもったものであった。蔵元は社会的な地位が高かった…。にもかかわらず…江戸時代初期の蔵元は、国本から蔵屋敷に来る武士の前ではいつもかしこまっていた。
●有力な商人が武士を「さんぴん〔1年の給料が3両1分の下級武士…)」などと軽く扱う風習は、江戸の町から広まった…。大坂が経済の中心地であった元禄期までの大坂、京都の上方商人は、武家を大切なお客さんとして立てていた。
→お客様第一主義、お客さまは神様
(P116)
●三井高平は子孫に大名貸に手を出してはならないと戒める。…三井家は、江戸で「現金売り掛値なし」と唱えて呉服の安売りを行って成長した。きわめて近代的感覚を持った商人だといえる。そのような合理的な三井家の高平であるから大名と出入りの商人との信頼関係だけが頼りの大名貸に批判的だった
→こうした特定の顧客にべったりと関係を持つビジネスは、相手側〔藩〕の財政破綻や明治維新などの政治経済的な大転換に対応できなかったことから見ても、実はリスキーだという好例。また、大口顧客中心で保守的な経営に転じた大坂は、以後、そのバイタリティを急速に失っていく。またクリステンセンのイノベーションのジレンマでも教えるとおり、保守的で堅実な経営を低成長期にやることは、経済の縮小再生産を招いてしまう。現在にも通じる話であろう
●今では、このような三井高平の考えをもっともだと考えるものが多いだろう。損得勘定だけで合理的に計算すれば、金を返さないかもしれない相手に資金を回すことは自殺行為である。しかし、江戸時代に貨幣を払って商品を受け取る現金商売はまだ確立していなかった。多くの小売商は、決まった常客に掛売りをする。そして問屋は小売商が掛金を集める時期に、まとめて小売商の支払いを受ける。日雇いの下層民は、毎日の生活に必要な米や炭をつけで買っていた…
→カードで食料品を買っていたようなもの。しかも節季で払えない人の悲喜こもごもは西鶴「世間胸算用」での描写は言うに及ばず、落語になると「かけとり(上方落語では浮かれの掛取り)」「穴泥」に描かれている

2010年10月29日金曜日

問屋を生み出した大坂〜大坂商人(武光誠〕

(P36)
●近年まで問屋は流通に欠かせなかった
●私(著者)が子供の頃、…丼池(どぶいけ)の問屋街に何度か行ったことがある。そのころに「素人お断り」の札や張り紙を出した店が多く見られた。当時の大阪の問屋街は極めて排他性の強い街だったように思う。
●江戸時代のごくはじめの頃の人々の生活圏は限られていた。…町に住む人は、近所の店を利用できたがそこに入ってくる品数はしれている。…小売商が商品を集める力にも限界がある。そこで庶民の身近な小売商に様々な品物をもたらす問屋が入れば大いに助かる。
→落語「千両みかん」の蜜柑問屋の主人の啖呵〔科白)は、大坂商人の心意気を示している。この噺、明治以降〔おそらく大正期)、東京に移植されたが、この啖呵を江戸の商人が切るところに違和感がある。落語には地域性があるのだ。
●このような発想は、大坂夏の陣の直後の大阪の町で生まれたと考えられている。文献に出てくる最初の問屋は、元和元年二年〔1616)に大坂にいた油問屋の加島屋三郎右衛門だとされている。…江戸時代はじめに大坂による商品流通の支配が続いた。現在それが崩れ始める大きな転換期にあたっている。元和年間(1615-23)から寛永年間(1640-)ごろにかけて、大坂で問屋による流通の支配が確立した。わずか25年ほどで、問屋と呼ばれる有力な商人たちが、流通経路を全て把握したのである。…それは驚くべき急速な変化であったろう。それと同じほど重要な転換が、これからの日本に訪れるかもしれない。
→かくて、新たなイノベーションは新たなサービスから始まる。
●大坂で問屋制が成立したことは、大坂の町が中央市場となったことを意味した。

2010年10月25日月曜日

ふるさと資源化と民俗学(岩本通弥編)吉川弘文館→民俗学者による政策批判

【コメント】
◯「ふるさと」を資本の論理で観光資源として費消することについて民俗学の立場から鋭く指摘している。特に、「ふるさと」は人為的に作られたものであり、主導権も自主性も「ふるさと」側にあるわけではないことは、地域振興として「ふるさと」を扱うことの危うさを示している。
◯この指摘を敷衍すると、たとえば、最近ブームとなっており私自身も参加する機会の多い様々な歴史探訪やレトロ街歩き、古典落語と文献渉猟といったことに、自意識を持ってどう向き合うか、考えさせられた。

[序]
●今、着目されている「ふるさと」とは,自身や父祖の生まれ育ったところではない。端的にいってしまえば、いわば他人のふるさと(故郷)を,自らのふるさとと捉えるような感性から生起してくる「ふるさと」である。
●たとえば,世界遺産の白川郷に観光客が大挙して訪れて,あたかも自らもそれを共有しているかのように眺める感覚や現象であり、また各地の山間観光地にしばしば冠される「日本人の心のふるさと」といったフレーズに、さほど違和感を抱かないような、私たち現代人の感性や認識である。集合的でノスタルジックなそれは、ナショナルなレベルの「ふるさと」だとも言って良い。
●美しく手入れされた景観の中で、そこで暮らす人間味にあふれた人々との温かい交流というのが、ここにある「ふるさと」イメージであり、かつ期待されている「ふるさと」像である。だが、それは、あるいは農からはるかに離れた都市住民の。生活感覚から理想化されたバーチャル世界の光景であるかもしれない。
●(ドイツ)民俗学では、…一見、素朴なものに、現代人がノスタルジーや伝統らしさを覚える感性や現象を、フォークロリズムと呼んできた。…現代の都市生活者はなぜ素朴な田園風景に憧憬を感じるのか、その一方で、地方はなぜ表面的に素朴さを装い、伝統らしさを演じるのかといった問題を問いかける
●ここ数年、「ふるさと」を資源化する試みが、政策的にも強く推し進められ、マスメディアや大手資本も巻き込み、「ふるさと」やいわゆる民族文化を賛美、商品化する傾向が加速度的に増している。全国各地で繰り広げられる世界遺産の登録運動や、棚田に象徴される文化的景観の保全運動をはじめ、スローライフやスローフード(地産地消)、昭和レトロや様々な癒しブームなど、どこか懐旧的な色彩を帯びた諸現象が、同時並行的に現出化している。
●全体的なベクトルは、文化財や地域固有財を観光化に資することで、地域振興を経済的に図ることを強烈に志向している。
●今日的情況は、文化財保護という名の下での観光開発が始動したのであり、より問題なのは、施策の目標となっている中山間地は、これまで観光化には不向きな立地条件にあり、ほんの一部を除いて人々の生業も観光業とは関わりのない、第一次産業を基盤とした地域だという点である。

【文化という名のもとに】
「文化」が地方/地域社会に与えた二つの課題
(1)地方はもっと「文化的」でなければならない
※この場合「文化=西洋文明を目指すべきもの」であり、これまで、地方の文化は否定され、駆逐され、あるいは矯正された。地方改良運動=豊かな物質文化の意識。
(2)地域社会は「文化」を保存しなければならない
→上記の(1)で否定しながら、「文化を売り物にする」戦略に則り、(2)では伝統文化を保存しようという矛盾。しかし、地方には保存すべき文化を存立させる自主性が失われたところも多い。経済的格差に起因する若年層の流出、それに伴う地域経済/コミュニティ崩壊の危機である
→先日「街歩き」した大阪の南堀江では、難波神社御旅所の神輿巡行が、都市中央部の人口減少による担ぎ手の不足以前に、道路交通の妨げになるという理由で警察に認められないために何十年も前に途絶えた。今更復活してもそれは継承されてきた祭りではなく、団地で新たに「賑わい」を求めて創作された「祭り」に過ぎない。文化を観光にする危うさの一例である

現代のビジネス慣習にも通じる大坂商人の姿〜日本町人道の研究(宮本又次)

現代のビジネス慣習にも通じる大坂商人の姿
巷間、大阪では「笑いをとる」ことが最優先されるということが言われすぎている。
しかしそれは「昔」からの伝統であるというのはいささか事実とは異なるようだ。
実際の道修町や船場のビジネスの場面では、余計な冗談や世間話は相手の仕事のさし触りになるということで遠慮する風習があったようだ。

[体面の意識~世間体の構造(P21)]
●江戸時代の大阪では「お町内」というものがひとつの社会単位
体面ということはつまり「笑い」と関連している。
とりわけ隣近所の笑いものにならぬことが最高の道徳であった。
大阪の町は通りにしても、筋にしても、割合に狭かった。狭い道路を差し挟んで、向かいにあっているので、店先に座ると毎日嫌でも合さねばならぬ顔と顔であった。
→落語「笠碁」で、碁敵はお互い相手の様子が見えるくらい狭い通りを隔てて店を構えていた

●一統とか親類縁者、同族結合の中における体面・面目があって、そのつきあいが常に意識され、それに対する考慮が必要となる。大きな店では別家が多く、ここに「のうれん内(暖簾内)」の関係ができ上がる。丁稚・手代が年季をつとめて、手代・番頭になり、主家の許容の下に独立の別家を立てる慣習→のうれんわけ(暖簾分け)
●「のうれん内」というのは本家(親方)と分家(血縁)・別家(奉公人分家)を含む集団
→落語「口入屋」の番頭の台詞を参照
→暖簾分けを期待してじっと我慢する番頭たち奉公人の鬱屈した心理については、「千両みかん」「百年目」「菊江仏壇」によく現れている

※大坂は元禄後期になり高成長が止まり停滞期に入った。そうなると大商人の多くは、奉公人の別家をなかなか認めなくなった。先行研究によると、たとえば鴻池家では家訓が厳格化し、分家別家を控え、資本の本家への集約化が始まったという。
※一方で、奉公人の管理も厳しくなり、奉公人の期間が長期化した。結果、晩婚化が進み、少子化が進んだ。勢い店の継承は自分の子供ではなく、奉公人の中から選ばれることが多かった。奉公人に対する管理の厳しさは江戸の比ではなかった。いずれにしてもかなりのストレス社会であり、この社会的背景が落語の「お店ばなし」を生み出した。
→晩婚と少子化が窺える落語として「次の御用日」「崇徳院」「千両みかん」「宇治の柴舟」「植木屋娘」「親子茶屋」

●株仲間の同業者同士の世間。お町内の世間。その上に親類・縁者・別家一統を含めた同族結合の世間がいろいろに交錯してきて、これに対して体面が意識された。この場合これらの世間に対する体面が重荷になって、町人身分を規制することもあった。いわゆる「世間の義理」という悩みである。
→近松作品の心中ものには世間様との軋轢により死を選ぶ数多くの男女の姿が描かれている。結構、息苦しい世の中である。

2010年10月24日日曜日

道空間のポリフォニー(音羽書房鶴見書店)


12交差空間とイギリスの道(坂田正顕)~六道の辻...(P293)
【引用箇所】
●道は交わり分岐する。復活したイエスは、「光の道」を選び「闇の道」を回避したと言われる。フランス語で「よい旅を(ボンボヤージュ)」はもともと「良い道を(ボンボワー)」に由来するとの説もある。道は道にリンクし、その多くは交差する得意な空間を作る。
●道と道(または閉ざされた敷地)が交わることにより生じる特異な水準にある空間(交差空間)について,日本の六道の辻とイギリスの道を事例に考えてみる。
●辻ができれば,辻に立脚した視点が生まれ、これまでの単調な線的道空間にこれを分節する足場が与えられることになる。であるからこそ、辻わざ、辻占い、辻強盗、辻斬り、辻相撲、辻講釈、辻説法、辻行灯、辻堂など一連の「辻現象」とでも言うべき特異な諸現象が辻なる交差空間を視点に分節化されることになる。
●かつての「辻」は非日常的な力が強く働く場としての特異な境界的空間として存立していた。彼岸と此岸、生と死、日常と非日常、昼と夜、安全と危険、運命と偶然等々が相互に融合したり、分化したりする場が「辻」である。
●異界の文化と日常文化とが拮抗する空間であり、夕暮れ時の辻は、時間的にも空間的にも日常/非日常の境界線に位置する不安定極まりない時空間であった。
【メモ】
→大阪・四天王寺の彼岸に西門(さいもん)から望む夕日は、かつて病を背負った人が拝んだ風景であり、まさに中世の説経節「さんせうだゆう」「しんとくまる」「おぐり」から、能/歌舞伎/落語につながる「道」の心象風景である。
まさにここでは、道は彼岸と此岸を一直線に結ぶ装置なのだ。
→このこと一つをとっても、「落語が物語を捨てられるか」という矢野誠一氏の問いに対して、例え談志師匠を中心とした業の肯定・人間本来に根ざした笑いの重要性を十分理解した上からも、私は「捨てられない。少なくともとても全ては捨て去れない」と答える。
→即ち、落語が説経節などの民間芸能に源流を持つ藝能として、あの明治の巨匠三遊亭円朝が、道具を林家正蔵に譲って、いわゆる扇子と手拭いと己の舌先三寸だけで表現しようと覚悟し、新派のような風を浴び、山岡鉄舟等の導きにより無舌の悟りを得た後も、連綿と続く中世からの「ものがたり」の系譜からは我が身をそらすことがなかったと、改めて私は確信した。落語はコメディーにもパフォーマンスにもなれないのである。


●他方、辻もない一本道での移動者は、前進するか後退するかのいずれかの動作をとるのみである。
●移動機会が極端に制限された閉鎖的文化や時代にあっては、辻的空間や分かれ道は、非日常的な得体のしれない諸世界に通じる危険な境界性を濃密に持った空間であったに違いない。しかし、今日、こうした辻空間は消え行く運命にある。
●たとえば、「六道の辻」。三つの道が一点で交差すれば、この交点を視点にして六方向に開かれた交差空間としての辻が出来上がる。六道辻の成立である。この幾何学的空間はそれ自体視覚的にも珍しい非日常的な風景を作り出しているだろう。
●この六つの道が、それぞれ六道の冥界に通じていると考えられたり、これに擬えたりされたことは少しも不思議ではない。
●配置のブードゥー教では、メグバ神やメットカフー神が街道・扉・運命を司り、街道や十字路に潜んでいると考えられている。