(P193)
●江戸時代はじめに「長者教」という書物が出版されている。商人としての心得をあれこれ記したもので、大坂の人の間で広く読まれた。西鶴はその後を受けて、彼の時代にあった「新長者教」として「日本永代蔵」を書いたと言われている。「長者教」は儒教道徳を踏まえたものだった。
●たとえば長者教には次のような文章がみえる。「金持ちになりたい、金を儲けたいという望みを叶えるためには、日頃の心がけが大切である。たとえ、一厘も持たなくても、長者になりたいと思って努力すれば、きっと長者になれる」これは、真面目に働くものは必ず報われるという一般論にすぎない。
●そして、西鶴はそのような無責任な表現をとらなかった。彼は、金が金を生むのだから、貧乏人が成り上がるのは容易ではないことを知り抜いていた。そのため、次のような文章を記している。「ただ、金が金を貯める世の中である。」「貧者はいつまでたっても貧しく、分限〔金持ち)は分限のままである」
→落語「商売根問」とそれを導入部として「金釣り」「鷺取り」「天狗さし」等が古典落語として今でも盛んに演じられているのも、「楽して儲けたい」という長者教レベルの願いがいかに強く、しかもその実現がいかに難しいかを証明している。
●西鶴の作品の木版本の中で、今日最も残存部数の多いものが「日本永代蔵」である。そのことは、江戸時代の人がその作品に特別の思いを寄せていたことを物語る。「好色一代男」などは、物語の結末を知ってしまえば不要になる。しかし「日本永代蔵」の中には、読めば読むほど深みを増す教えが多く盛り込まれている。「日本永代蔵」から生き方のヒントを得た親は、子供たちにそれを読ませたいと思った。そのため「日本永代蔵」…が捨てられずに家に伝えられた。
●西鶴は「日本永代蔵」で浪費と情報なしの見込みによる商売は家を滅ぼすものだという。この考えは、現代にも当てはまるものであろう。
→今日でも「やればできる」「願えば願いは叶う」として中身は単なる一般論しかない、何の具体的解決にもならないビジネス書が散見される。また性懲りも無く次から次と産み出されている。これらはただの長者教である。そんなものを読むよりは、遥かに西鶴の「永代蔵」「胸算用」「置土産」等〔特に永代蔵〕は教えられるところが多い。だからこそ発行部数が少なかった当時から数百年たっても残っている。その事自体がそれを物語る。
2010年10月30日土曜日
大坂の豪商たち〜「大坂商人」(武光誠〕
(P100)
●…まもなく産物の売りさばきをすべて淀屋に委ねる大名が出てきた。藩士が売るより遥かに高い値で、淀屋がそれをさばくからだ。
→「官から民へ」ということか
●蔵屋敷の運営を任された大商人は「蔵元」と呼ばれた。その呼び名は、ただ一人で広大な蔵屋敷を取り仕切る、元締めという意味の敬意のこもったものであった。蔵元は社会的な地位が高かった…。にもかかわらず…江戸時代初期の蔵元は、国本から蔵屋敷に来る武士の前ではいつもかしこまっていた。
●有力な商人が武士を「さんぴん〔1年の給料が3両1分の下級武士…)」などと軽く扱う風習は、江戸の町から広まった…。大坂が経済の中心地であった元禄期までの大坂、京都の上方商人は、武家を大切なお客さんとして立てていた。
→お客様第一主義、お客さまは神様
(P116)
●三井高平は子孫に大名貸に手を出してはならないと戒める。…三井家は、江戸で「現金売り掛値なし」と唱えて呉服の安売りを行って成長した。きわめて近代的感覚を持った商人だといえる。そのような合理的な三井家の高平であるから大名と出入りの商人との信頼関係だけが頼りの大名貸に批判的だった。
→こうした特定の顧客にべったりと関係を持つビジネスは、相手側〔藩〕の財政破綻や明治維新などの政治経済的な大転換に対応できなかったことから見ても、実はリスキーだという好例。また、大口顧客中心で保守的な経営に転じた大坂は、以後、そのバイタリティを急速に失っていく。またクリステンセンのイノベーションのジレンマでも教えるとおり、保守的で堅実な経営を低成長期にやることは、経済の縮小再生産を招いてしまう。現在にも通じる話であろう。
●今では、このような三井高平の考えをもっともだと考えるものが多いだろう。損得勘定だけで合理的に計算すれば、金を返さないかもしれない相手に資金を回すことは自殺行為である。しかし、江戸時代に貨幣を払って商品を受け取る現金商売はまだ確立していなかった。多くの小売商は、決まった常客に掛売りをする。そして問屋は小売商が掛金を集める時期に、まとめて小売商の支払いを受ける。日雇いの下層民は、毎日の生活に必要な米や炭をつけで買っていた…
→カードで食料品を買っていたようなもの。しかも節季で払えない人の悲喜こもごもは西鶴「世間胸算用」での描写は言うに及ばず、落語になると「かけとり(上方落語では浮かれの掛取り)」「穴泥」に描かれている
●…まもなく産物の売りさばきをすべて淀屋に委ねる大名が出てきた。藩士が売るより遥かに高い値で、淀屋がそれをさばくからだ。
→「官から民へ」ということか
●蔵屋敷の運営を任された大商人は「蔵元」と呼ばれた。その呼び名は、ただ一人で広大な蔵屋敷を取り仕切る、元締めという意味の敬意のこもったものであった。蔵元は社会的な地位が高かった…。にもかかわらず…江戸時代初期の蔵元は、国本から蔵屋敷に来る武士の前ではいつもかしこまっていた。
●有力な商人が武士を「さんぴん〔1年の給料が3両1分の下級武士…)」などと軽く扱う風習は、江戸の町から広まった…。大坂が経済の中心地であった元禄期までの大坂、京都の上方商人は、武家を大切なお客さんとして立てていた。
→お客様第一主義、お客さまは神様
(P116)
●三井高平は子孫に大名貸に手を出してはならないと戒める。…三井家は、江戸で「現金売り掛値なし」と唱えて呉服の安売りを行って成長した。きわめて近代的感覚を持った商人だといえる。そのような合理的な三井家の高平であるから大名と出入りの商人との信頼関係だけが頼りの大名貸に批判的だった。
→こうした特定の顧客にべったりと関係を持つビジネスは、相手側〔藩〕の財政破綻や明治維新などの政治経済的な大転換に対応できなかったことから見ても、実はリスキーだという好例。また、大口顧客中心で保守的な経営に転じた大坂は、以後、そのバイタリティを急速に失っていく。またクリステンセンのイノベーションのジレンマでも教えるとおり、保守的で堅実な経営を低成長期にやることは、経済の縮小再生産を招いてしまう。現在にも通じる話であろう。
●今では、このような三井高平の考えをもっともだと考えるものが多いだろう。損得勘定だけで合理的に計算すれば、金を返さないかもしれない相手に資金を回すことは自殺行為である。しかし、江戸時代に貨幣を払って商品を受け取る現金商売はまだ確立していなかった。多くの小売商は、決まった常客に掛売りをする。そして問屋は小売商が掛金を集める時期に、まとめて小売商の支払いを受ける。日雇いの下層民は、毎日の生活に必要な米や炭をつけで買っていた…
→カードで食料品を買っていたようなもの。しかも節季で払えない人の悲喜こもごもは西鶴「世間胸算用」での描写は言うに及ばず、落語になると「かけとり(上方落語では浮かれの掛取り)」「穴泥」に描かれている
2010年10月29日金曜日
問屋を生み出した大坂〜大坂商人(武光誠〕
(P36)
●近年まで問屋は流通に欠かせなかった
●私(著者)が子供の頃、…丼池(どぶいけ)の問屋街に何度か行ったことがある。そのころに「素人お断り」の札や張り紙を出した店が多く見られた。当時の大阪の問屋街は極めて排他性の強い街だったように思う。
●江戸時代のごくはじめの頃の人々の生活圏は限られていた。…町に住む人は、近所の店を利用できたがそこに入ってくる品数はしれている。…小売商が商品を集める力にも限界がある。そこで庶民の身近な小売商に様々な品物をもたらす問屋が入れば大いに助かる。
→落語「千両みかん」の蜜柑問屋の主人の啖呵〔科白)は、大坂商人の心意気を示している。この噺、明治以降〔おそらく大正期)、東京に移植されたが、この啖呵を江戸の商人が切るところに違和感がある。落語には地域性があるのだ。
●このような発想は、大坂夏の陣の直後の大阪の町で生まれたと考えられている。文献に出てくる最初の問屋は、元和元年二年〔1616)に大坂にいた油問屋の加島屋三郎右衛門だとされている。…江戸時代はじめに大坂による商品流通の支配が続いた。現在それが崩れ始める大きな転換期にあたっている。元和年間(1615-23)から寛永年間(1640-)ごろにかけて、大坂で問屋による流通の支配が確立した。わずか25年ほどで、問屋と呼ばれる有力な商人たちが、流通経路を全て把握したのである。…それは驚くべき急速な変化であったろう。それと同じほど重要な転換が、これからの日本に訪れるかもしれない。
→かくて、新たなイノベーションは新たなサービスから始まる。
●大坂で問屋制が成立したことは、大坂の町が中央市場となったことを意味した。
●近年まで問屋は流通に欠かせなかった
●私(著者)が子供の頃、…丼池(どぶいけ)の問屋街に何度か行ったことがある。そのころに「素人お断り」の札や張り紙を出した店が多く見られた。当時の大阪の問屋街は極めて排他性の強い街だったように思う。
●江戸時代のごくはじめの頃の人々の生活圏は限られていた。…町に住む人は、近所の店を利用できたがそこに入ってくる品数はしれている。…小売商が商品を集める力にも限界がある。そこで庶民の身近な小売商に様々な品物をもたらす問屋が入れば大いに助かる。
→落語「千両みかん」の蜜柑問屋の主人の啖呵〔科白)は、大坂商人の心意気を示している。この噺、明治以降〔おそらく大正期)、東京に移植されたが、この啖呵を江戸の商人が切るところに違和感がある。落語には地域性があるのだ。
●このような発想は、大坂夏の陣の直後の大阪の町で生まれたと考えられている。文献に出てくる最初の問屋は、元和元年二年〔1616)に大坂にいた油問屋の加島屋三郎右衛門だとされている。…江戸時代はじめに大坂による商品流通の支配が続いた。現在それが崩れ始める大きな転換期にあたっている。元和年間(1615-23)から寛永年間(1640-)ごろにかけて、大坂で問屋による流通の支配が確立した。わずか25年ほどで、問屋と呼ばれる有力な商人たちが、流通経路を全て把握したのである。…それは驚くべき急速な変化であったろう。それと同じほど重要な転換が、これからの日本に訪れるかもしれない。
→かくて、新たなイノベーションは新たなサービスから始まる。
●大坂で問屋制が成立したことは、大坂の町が中央市場となったことを意味した。
2010年10月25日月曜日
ふるさと資源化と民俗学(岩本通弥編)吉川弘文館→民俗学者による政策批判
【コメント】
◯「ふるさと」を資本の論理で観光資源として費消することについて民俗学の立場から鋭く指摘している。特に、「ふるさと」は人為的に作られたものであり、主導権も自主性も「ふるさと」側にあるわけではないことは、地域振興として「ふるさと」を扱うことの危うさを示している。
◯この指摘を敷衍すると、たとえば、最近ブームとなっており私自身も参加する機会の多い様々な歴史探訪やレトロ街歩き、古典落語と文献渉猟といったことに、自意識を持ってどう向き合うか、考えさせられた。
[序]
●今、着目されている「ふるさと」とは,自身や父祖の生まれ育ったところではない。端的にいってしまえば、いわば他人のふるさと(故郷)を,自らのふるさとと捉えるような感性から生起してくる「ふるさと」である。
●たとえば,世界遺産の白川郷に観光客が大挙して訪れて,あたかも自らもそれを共有しているかのように眺める感覚や現象であり、また各地の山間観光地にしばしば冠される「日本人の心のふるさと」といったフレーズに、さほど違和感を抱かないような、私たち現代人の感性や認識である。集合的でノスタルジックなそれは、ナショナルなレベルの「ふるさと」だとも言って良い。
●美しく手入れされた景観の中で、そこで暮らす人間味にあふれた人々との温かい交流というのが、ここにある「ふるさと」イメージであり、かつ期待されている「ふるさと」像である。だが、それは、あるいは農からはるかに離れた都市住民の。生活感覚から理想化されたバーチャル世界の光景であるかもしれない。
●(ドイツ)民俗学では、…一見、素朴なものに、現代人がノスタルジーや伝統らしさを覚える感性や現象を、フォークロリズムと呼んできた。…現代の都市生活者はなぜ素朴な田園風景に憧憬を感じるのか、その一方で、地方はなぜ表面的に素朴さを装い、伝統らしさを演じるのかといった問題を問いかける
●ここ数年、「ふるさと」を資源化する試みが、政策的にも強く推し進められ、マスメディアや大手資本も巻き込み、「ふるさと」やいわゆる民族文化を賛美、商品化する傾向が加速度的に増している。全国各地で繰り広げられる世界遺産の登録運動や、棚田に象徴される文化的景観の保全運動をはじめ、スローライフやスローフード(地産地消)、昭和レトロや様々な癒しブームなど、どこか懐旧的な色彩を帯びた諸現象が、同時並行的に現出化している。
●全体的なベクトルは、文化財や地域固有財を観光化に資することで、地域振興を経済的に図ることを強烈に志向している。
●今日的情況は、文化財保護という名の下での観光開発が始動したのであり、より問題なのは、施策の目標となっている中山間地は、これまで観光化には不向きな立地条件にあり、ほんの一部を除いて人々の生業も観光業とは関わりのない、第一次産業を基盤とした地域だという点である。
【文化という名のもとに】
「文化」が地方/地域社会に与えた二つの課題
(1)地方はもっと「文化的」でなければならない
※この場合「文化=西洋文明を目指すべきもの」であり、これまで、地方の文化は否定され、駆逐され、あるいは矯正された。地方改良運動=豊かな物質文化の意識。
(2)地域社会は「文化」を保存しなければならない
→上記の(1)で否定しながら、「文化を売り物にする」戦略に則り、(2)では伝統文化を保存しようという矛盾。しかし、地方には保存すべき文化を存立させる自主性が失われたところも多い。経済的格差に起因する若年層の流出、それに伴う地域経済/コミュニティ崩壊の危機である
→先日「街歩き」した大阪の南堀江では、難波神社御旅所の神輿巡行が、都市中央部の人口減少による担ぎ手の不足以前に、道路交通の妨げになるという理由で警察に認められないために何十年も前に途絶えた。今更復活してもそれは継承されてきた祭りではなく、団地で新たに「賑わい」を求めて創作された「祭り」に過ぎない。文化を観光にする危うさの一例である
◯「ふるさと」を資本の論理で観光資源として費消することについて民俗学の立場から鋭く指摘している。特に、「ふるさと」は人為的に作られたものであり、主導権も自主性も「ふるさと」側にあるわけではないことは、地域振興として「ふるさと」を扱うことの危うさを示している。
◯この指摘を敷衍すると、たとえば、最近ブームとなっており私自身も参加する機会の多い様々な歴史探訪やレトロ街歩き、古典落語と文献渉猟といったことに、自意識を持ってどう向き合うか、考えさせられた。
[序]
●今、着目されている「ふるさと」とは,自身や父祖の生まれ育ったところではない。端的にいってしまえば、いわば他人のふるさと(故郷)を,自らのふるさとと捉えるような感性から生起してくる「ふるさと」である。
●たとえば,世界遺産の白川郷に観光客が大挙して訪れて,あたかも自らもそれを共有しているかのように眺める感覚や現象であり、また各地の山間観光地にしばしば冠される「日本人の心のふるさと」といったフレーズに、さほど違和感を抱かないような、私たち現代人の感性や認識である。集合的でノスタルジックなそれは、ナショナルなレベルの「ふるさと」だとも言って良い。
●美しく手入れされた景観の中で、そこで暮らす人間味にあふれた人々との温かい交流というのが、ここにある「ふるさと」イメージであり、かつ期待されている「ふるさと」像である。だが、それは、あるいは農からはるかに離れた都市住民の。生活感覚から理想化されたバーチャル世界の光景であるかもしれない。
●(ドイツ)民俗学では、…一見、素朴なものに、現代人がノスタルジーや伝統らしさを覚える感性や現象を、フォークロリズムと呼んできた。…現代の都市生活者はなぜ素朴な田園風景に憧憬を感じるのか、その一方で、地方はなぜ表面的に素朴さを装い、伝統らしさを演じるのかといった問題を問いかける
●ここ数年、「ふるさと」を資源化する試みが、政策的にも強く推し進められ、マスメディアや大手資本も巻き込み、「ふるさと」やいわゆる民族文化を賛美、商品化する傾向が加速度的に増している。全国各地で繰り広げられる世界遺産の登録運動や、棚田に象徴される文化的景観の保全運動をはじめ、スローライフやスローフード(地産地消)、昭和レトロや様々な癒しブームなど、どこか懐旧的な色彩を帯びた諸現象が、同時並行的に現出化している。
●全体的なベクトルは、文化財や地域固有財を観光化に資することで、地域振興を経済的に図ることを強烈に志向している。
●今日的情況は、文化財保護という名の下での観光開発が始動したのであり、より問題なのは、施策の目標となっている中山間地は、これまで観光化には不向きな立地条件にあり、ほんの一部を除いて人々の生業も観光業とは関わりのない、第一次産業を基盤とした地域だという点である。
【文化という名のもとに】
「文化」が地方/地域社会に与えた二つの課題
(1)地方はもっと「文化的」でなければならない
※この場合「文化=西洋文明を目指すべきもの」であり、これまで、地方の文化は否定され、駆逐され、あるいは矯正された。地方改良運動=豊かな物質文化の意識。
(2)地域社会は「文化」を保存しなければならない
→上記の(1)で否定しながら、「文化を売り物にする」戦略に則り、(2)では伝統文化を保存しようという矛盾。しかし、地方には保存すべき文化を存立させる自主性が失われたところも多い。経済的格差に起因する若年層の流出、それに伴う地域経済/コミュニティ崩壊の危機である
→先日「街歩き」した大阪の南堀江では、難波神社御旅所の神輿巡行が、都市中央部の人口減少による担ぎ手の不足以前に、道路交通の妨げになるという理由で警察に認められないために何十年も前に途絶えた。今更復活してもそれは継承されてきた祭りではなく、団地で新たに「賑わい」を求めて創作された「祭り」に過ぎない。文化を観光にする危うさの一例である
現代のビジネス慣習にも通じる大坂商人の姿〜日本町人道の研究(宮本又次)
現代のビジネス慣習にも通じる大坂商人の姿
巷間、大阪では「笑いをとる」ことが最優先されるということが言われすぎている。
しかしそれは「昔」からの伝統であるというのはいささか事実とは異なるようだ。
実際の道修町や船場のビジネスの場面では、余計な冗談や世間話は相手の仕事のさし触りになるということで遠慮する風習があったようだ。
[体面の意識~世間体の構造(P21)]
●江戸時代の大阪では「お町内」というものがひとつの社会単位
体面ということはつまり「笑い」と関連している。
とりわけ隣近所の笑いものにならぬことが最高の道徳であった。
大阪の町は通りにしても、筋にしても、割合に狭かった。狭い道路を差し挟んで、向かいにあっているので、店先に座ると毎日嫌でも合さねばならぬ顔と顔であった。
→落語「笠碁」で、碁敵はお互い相手の様子が見えるくらい狭い通りを隔てて店を構えていた
●一統とか親類縁者、同族結合の中における体面・面目があって、そのつきあいが常に意識され、それに対する考慮が必要となる。大きな店では別家が多く、ここに「のうれん内(暖簾内)」の関係ができ上がる。丁稚・手代が年季をつとめて、手代・番頭になり、主家の許容の下に独立の別家を立てる慣習→のうれんわけ(暖簾分け)
●「のうれん内」というのは本家(親方)と分家(血縁)・別家(奉公人分家)を含む集団
→落語「口入屋」の番頭の台詞を参照
→暖簾分けを期待してじっと我慢する番頭たち奉公人の鬱屈した心理については、「千両みかん」「百年目」「菊江仏壇」によく現れている
※大坂は元禄後期になり高成長が止まり停滞期に入った。そうなると大商人の多くは、奉公人の別家をなかなか認めなくなった。先行研究によると、たとえば鴻池家では家訓が厳格化し、分家別家を控え、資本の本家への集約化が始まったという。
※一方で、奉公人の管理も厳しくなり、奉公人の期間が長期化した。結果、晩婚化が進み、少子化が進んだ。勢い店の継承は自分の子供ではなく、奉公人の中から選ばれることが多かった。奉公人に対する管理の厳しさは江戸の比ではなかった。いずれにしてもかなりのストレス社会であり、この社会的背景が落語の「お店ばなし」を生み出した。
→晩婚と少子化が窺える落語として「次の御用日」「崇徳院」「千両みかん」「宇治の柴舟」「植木屋娘」「親子茶屋」
●株仲間の同業者同士の世間。お町内の世間。その上に親類・縁者・別家一統を含めた同族結合の世間がいろいろに交錯してきて、これに対して体面が意識された。この場合これらの世間に対する体面が重荷になって、町人身分を規制することもあった。いわゆる「世間の義理」という悩みである。
→近松作品の心中ものには世間様との軋轢により死を選ぶ数多くの男女の姿が描かれている。結構、息苦しい世の中である。
巷間、大阪では「笑いをとる」ことが最優先されるということが言われすぎている。
しかしそれは「昔」からの伝統であるというのはいささか事実とは異なるようだ。
実際の道修町や船場のビジネスの場面では、余計な冗談や世間話は相手の仕事のさし触りになるということで遠慮する風習があったようだ。
[体面の意識~世間体の構造(P21)]
●江戸時代の大阪では「お町内」というものがひとつの社会単位
体面ということはつまり「笑い」と関連している。
とりわけ隣近所の笑いものにならぬことが最高の道徳であった。
大阪の町は通りにしても、筋にしても、割合に狭かった。狭い道路を差し挟んで、向かいにあっているので、店先に座ると毎日嫌でも合さねばならぬ顔と顔であった。
→落語「笠碁」で、碁敵はお互い相手の様子が見えるくらい狭い通りを隔てて店を構えていた
●一統とか親類縁者、同族結合の中における体面・面目があって、そのつきあいが常に意識され、それに対する考慮が必要となる。大きな店では別家が多く、ここに「のうれん内(暖簾内)」の関係ができ上がる。丁稚・手代が年季をつとめて、手代・番頭になり、主家の許容の下に独立の別家を立てる慣習→のうれんわけ(暖簾分け)
●「のうれん内」というのは本家(親方)と分家(血縁)・別家(奉公人分家)を含む集団
→落語「口入屋」の番頭の台詞を参照
→暖簾分けを期待してじっと我慢する番頭たち奉公人の鬱屈した心理については、「千両みかん」「百年目」「菊江仏壇」によく現れている
※大坂は元禄後期になり高成長が止まり停滞期に入った。そうなると大商人の多くは、奉公人の別家をなかなか認めなくなった。先行研究によると、たとえば鴻池家では家訓が厳格化し、分家別家を控え、資本の本家への集約化が始まったという。
※一方で、奉公人の管理も厳しくなり、奉公人の期間が長期化した。結果、晩婚化が進み、少子化が進んだ。勢い店の継承は自分の子供ではなく、奉公人の中から選ばれることが多かった。奉公人に対する管理の厳しさは江戸の比ではなかった。いずれにしてもかなりのストレス社会であり、この社会的背景が落語の「お店ばなし」を生み出した。
→晩婚と少子化が窺える落語として「次の御用日」「崇徳院」「千両みかん」「宇治の柴舟」「植木屋娘」「親子茶屋」
●株仲間の同業者同士の世間。お町内の世間。その上に親類・縁者・別家一統を含めた同族結合の世間がいろいろに交錯してきて、これに対して体面が意識された。この場合これらの世間に対する体面が重荷になって、町人身分を規制することもあった。いわゆる「世間の義理」という悩みである。
→近松作品の心中ものには世間様との軋轢により死を選ぶ数多くの男女の姿が描かれている。結構、息苦しい世の中である。
2010年10月24日日曜日
道空間のポリフォニー(音羽書房鶴見書店)
12交差空間とイギリスの道(坂田正顕)~六道の辻...(P293)
【引用箇所】
●道は交わり分岐する。復活したイエスは、「光の道」を選び「闇の道」を回避したと言われる。フランス語で「よい旅を(ボンボヤージュ)」はもともと「良い道を(ボンボワー)」に由来するとの説もある。道は道にリンクし、その多くは交差する得意な空間を作る。
●道と道(または閉ざされた敷地)が交わることにより生じる特異な水準にある空間(交差空間)について,日本の六道の辻とイギリスの道を事例に考えてみる。
●辻ができれば,辻に立脚した視点が生まれ、これまでの単調な線的道空間にこれを分節する足場が与えられることになる。であるからこそ、辻わざ、辻占い、辻強盗、辻斬り、辻相撲、辻講釈、辻説法、辻行灯、辻堂など一連の「辻現象」とでも言うべき特異な諸現象が辻なる交差空間を視点に分節化されることになる。
●かつての「辻」は非日常的な力が強く働く場としての特異な境界的空間として存立していた。彼岸と此岸、生と死、日常と非日常、昼と夜、安全と危険、運命と偶然等々が相互に融合したり、分化したりする場が「辻」である。
●異界の文化と日常文化とが拮抗する空間であり、夕暮れ時の辻は、時間的にも空間的にも日常/非日常の境界線に位置する不安定極まりない時空間であった。
【メモ】
→大阪・四天王寺の彼岸に西門(さいもん)から望む夕日は、かつて病を背負った人が拝んだ風景であり、まさに中世の説経節「さんせうだゆう」「しんとくまる」「おぐり」から、能/歌舞伎/落語につながる「道」の心象風景である。まさにここでは、道は彼岸と此岸を一直線に結ぶ装置なのだ。
→このこと一つをとっても、「落語が物語を捨てられるか」という矢野誠一氏の問いに対して、例え談志師匠を中心とした業の肯定・人間本来に根ざした笑いの重要性を十分理解した上からも、私は「捨てられない。少なくともとても全ては捨て去れない」と答える。
→即ち、落語が説経節などの民間芸能に源流を持つ藝能として、あの明治の巨匠三遊亭円朝が、道具を林家正蔵に譲って、いわゆる扇子と手拭いと己の舌先三寸だけで表現しようと覚悟し、新派のような風を浴び、山岡鉄舟等の導きにより無舌の悟りを得た後も、連綿と続く中世からの「ものがたり」の系譜からは我が身をそらすことがなかったと、改めて私は確信した。落語はコメディーにもパフォーマンスにもなれないのである。
●他方、辻もない一本道での移動者は、前進するか後退するかのいずれかの動作をとるのみである。
●移動機会が極端に制限された閉鎖的文化や時代にあっては、辻的空間や分かれ道は、非日常的な得体のしれない諸世界に通じる危険な境界性を濃密に持った空間であったに違いない。しかし、今日、こうした辻空間は消え行く運命にある。
●たとえば、「六道の辻」。三つの道が一点で交差すれば、この交点を視点にして六方向に開かれた交差空間としての辻が出来上がる。六道辻の成立である。この幾何学的空間はそれ自体視覚的にも珍しい非日常的な風景を作り出しているだろう。
●この六つの道が、それぞれ六道の冥界に通じていると考えられたり、これに擬えたりされたことは少しも不思議ではない。
●配置のブードゥー教では、メグバ神やメットカフー神が街道・扉・運命を司り、街道や十字路に潜んでいると考えられている。
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