2010年11月14日日曜日

直視せよ!OTTO DIX展に行ってきました【伊丹市立美術館】


直視せよ!という言葉と、ガスマスクをつけた兵士の不気味な銅版画が強いインパクト。第一次大戦に従軍し、ソンムの激戦にも参戦したDIXは間違いなく混乱と競争の時代の証言者だった。社会の矛盾を訴えなければいられなかったのであろう。日本であれば、小林多喜二や武田麟太郎が描いたものと同じものが底流に流れている。女性がコルセットから解放され、ジャズが流れた時代は、プチブルジョアが喧騒と狂躁に踊った社会であり、ミュージカル「キャバレー」を思わず想起したが、その同じ時代はやはり貧困と矛盾に満ちていたのだ。そしてその矛盾を解消すると「期待」されたのが、ヒットラーだったという不幸。これを改めて考えさせられた、小規模ながら手厳しい展覧会。12月19日まで。

2010年10月31日日曜日

柳田民俗学のバイアス〜声の国民国家

(P88)
●チョンガレやデロレン祭文などの物語芸能は、近代の浪花節の中に発展的に吸収・解消されていく。だが、近代にはいって、流行した浪花節に対して、近代以前に地方伝搬していたチョンガレや祭文は、しばしば盆踊りの音頭・口説と集合して、土地に根付いた形で伝承される地域が少なくない。チョンガレ、祭文、踊り口説などが、しばしば市町村史類の民俗編などに取り上げられる理由だが、しかし近世に流行したそれらの物語芸能を、郷土芸能・民俗芸能といったローカルな枠組みでとらえることは、問題の重要な側面を見落とすことになる。かつて全国規模で流通したチョンガレや祭文は、民俗(フォークロア)研究のバイアスを取り払って考察される必要がある。

(P90)都市的な大衆芸能
●デロレン祭文は、浪花節とセットして考察されるべき近世・近代の物語芸能である。それは、柳田国男がイメージしたような中世の山伏祭文などに直結する芸能というより、幕末期に全国展開したきわめて都市的な大衆芸能だった。
●…柳田の関心は、物語の内容には向かっても、それを語る祭文の芸そのものには向かわない。昭和10年代当時は、山形県にプロの祭文が足りが盛んに活動していたが、しかし同時代的な声の世界に無関心なのは、柳田の「口承文芸」研究の特徴だった。柳田がその民俗学的な「口承文芸」研究の大正から、浪花節とその隣接芸能を周到に排除していた。
●山形県で行われたデロレン祭文は、決して山形方言では語られない。また、奈良県や三重県のデロレン祭文も、奈良・三重の方言では語られない。祭文の語りに使用される言葉は、講談や浪花節にも共通する一種独特の語り口調である。…旋律を持たないコトバの部分も。邦楽研究者の言う「吟踊(講談口調の語り)」であって、日常口調とは違う発声が行われる。
●芸人(非常民)の声によって伝搬・流通する物語を通して、地域や階層を超えた日本社会の文化的なアイデンティティが形成されていく。それは…日本近代の「国民」国家が形成される前提条件ともなる…。

都市高等遊民の誕生〜「大阪のスラムと盛り場」加藤政洋

◉(P192)消費される都市空間〜遊歩者たちの足どりと語り
1920年代の盛り場は、もはや江戸時代の悪所を彷彿とさせるような場所ではなく、映画館やカフェーを中心に…様々な消費施設が集まって、現在にも通じる盛り場独特の風景を創り出し、大衆文化の開花とともに20世紀を通して最も華やぐ時期を迎えていた。このことは、東京浅草、名古屋大洲、神戸新開地、大阪千日前・道頓堀などの旧来の盛り場に限られたことではない。
◉というのも、…盛り場・商店街のぶらぶら歩き(遊歩)が全国各都市で大流行し、夜ともなれば中心商店街はまさにその舞台として。都市民が埋め尽くす歓楽の巷となっていたからである。
◉遊歩という空間的な実践によって都市空間を消費する民衆の営みを…文化と呼ぶ…ならば、民衆は…商店街や盛り場を舞台として独自の文化を創造していた…
*(P193まとめ)商店から商店街へ、百貨店の登場(座売り→陳列売り、正札売り)、町屋式店舗(間口狭く奥行きがある)→部分的にショーウィン度ー設置、顧客ばかりの商い→都市大衆という不特定多数相手の商いへ
*商店→商店会の組織化、催事運営・陳列方法の統制、街燈・辻灯、共同日覆い設置→商店街にまとめ上げる
*(P200)芝居茶屋の衰退をともなう道頓堀の映画館への変貌→伝統的芝居街という歴史的場所性を解体→カフェー進出の下地
*カフェーの変遷:当初はインテリ層が集まるサロン的雰囲気の場→高等遊民が消費する大衆的な空間としての喫茶店へ

◉(P209)路地という空間を発見した人物の一人として織田作之助をあげることができる…
(P212)近代大阪を象徴する都市景観…「強烈な電飾とジャズの強烈な電飾とジャズの狂躁曲を浴びせかけ」る道頓堀、…「心斎橋筋の光の洪水」が…「大阪的な」ものとしての「路地」を「発見」せしめた…

◉(P213)都市を歩くこと。それは、我々が自己の地理的想像力によりながら、新たな都市の空間性を、そして新たな主体性を創造・想像することにつながる…

地域寄席・東明寄席開催決定(12月4日)


来る12月4日に例年通り「東明寄席」を開催します!

かつての柳笑亭の流れをくみ、
四半世紀にわたる歴史を持ち、
阪神淡路大震災の被災にもめげず、
地元・神戸御影東明地区の皆さんのご好意で続けている地域寄席です。

【日 時】12月4日(土)18:45〜20:30
【場 所】東明会館(阪神電車・石屋川駅すぐ)
【木戸銭】300円
【出演者】(出演順)
 森乃石松(二代目 森乃福郎門下)
 旭堂南湖(三代目 旭堂南陵門下)
 桂 米左(三代目 桂 米朝門下)
 旭堂南鱗(三代目 旭堂南陵門下)

2010年10月30日土曜日

風俗史、世相史、文化史になぜ傾斜したか〜「大阪商人」宮本又次

(宮本又次「私の研究遍歴」)
●混濁渦巻ける大阪の巷が醸しだす不思議なる魅力、それは脈々と尽きぬ生命力といえるであろう。権威におもねらず、自ら頼み、自ら助くるひたぶるの町人心こそ大阪人の生命である。

(宮本又次「大阪商人」序)
●所詮歴史は人間の歴史であって、それ以外の何ものでもない。人間を忘れ、社会機構のからくりの分析に終始した、あまりにも経済史的な経済史に、ようやく飽きたらぬものを感じ取った…社会構成史的なものの見方や機械論的観念や決定論的なものの考え方よりも、人間を常に念頭に置かなければなるまい。対立論的な階級の観点を捨象して、およそ生きとし生くる者の努力や精進に、そしてその哀歓に人間生活の実相を窺いたい

(宮本又郎〜解説「おおさかもの」の背景)
●戦後の日本の歴史学、経済史学ではマルクス主義、唯物史観の影響もあって…大阪、大阪商人の性格についても…当時はまだ講座はや大塚史学が盛んであり、「近世大阪は天領として、市場は封建規制下にあり、特権商人であった大阪町民は「市民」ではなく、近代資本主義の担い手にに成り得なかった」といった趣旨の学説が支配的であった。これに対して又次は、「大阪=天下の台所の天下は、幕府や藩の領国ではなく、いわば封建支配の真空地帯的性格を有しており、そこではかなりの程度、市場の原理が機能していた。江戸中期の大阪町人は市民に近似する存在であった」とのアンチテーゼを唱えていた。

落語は細部が重要〜「江戸の気分」堀井憲一郎

(P232)
◉落語は土地のものだ。はっきりいえば、大阪と京都の対立なんぞは、大阪と京都の人以外はどうでもいいつまらない話題だ。…それ以外のエリアの人はどうでもいいだろう。ただ、落語というのは、その内容そのものがどうでもいいものも多く、細かいどうでもよいところを飛ばしてしまうと、落語そのものが成り立たなくなる。だから、こういうなんでもないところが大事になってくる。
◉落語は、その土地で聞かないと意味がないと思うのは、、こういうところである。京大坂の対立の説明をすれば、他の地の人にも背景はわかってもらえるだろう。でも、何とも言えないおかしみは共有できない。土地が持ってる空気は感じられない。…土地の空気を背景に、いくつもの噺が語られている。
◉落語の芯にある「人間の業」の部分は、どこであっても通用するが、細かいところは土地の人間にしかわからないようにできている。江戸の昔、人が今ほど動く訳ではなく、お噺を聞くにはその小屋に出向くしかなかった。そういう時代の芸能である。…その土地の人たちで楽しむ芸能なのだ。
(P240)
明治政府が必死でやったことは「日本がひとつの国であることをみんなで信じることだった。…いまの世は、なるたけいろんな世界を巻き込んでよこうとする。…高度資本主義社会は、社会的弱者をきれいにまとめてやんわりと社会の外側へと追いやっていますね。
→地方の疲弊、画一化が叫ばれて久しい。最近では東京とそれ以外の地域に分けられていると言う人もいる。

低成長期に輩出した町人学者「懐徳堂」と「心学」〜「大坂商人」〔武光誠〕

私は大阪・関西の凋落の最大の原因は、文化教養の伝統、町人学者の伝統を捨て去ったことにあると思っている。特に最近その思いを強くしている。
しかもその凋落は昨日今日の話ではない。瞬間、大大阪の時期があったが、それもあくまで経済的な一時の繁栄に過ぎなかったのではないか。
凋落の要因を大別すると、第一は、元禄末期(!)以降の低成長期に商人が保守化を強めたこと、第二は、明治初期の銀本位制廃止と廃藩置県に対応できずに大半の上方の豪商が没落してスポンサーがいなくなったこと、第三は出版文化が育たなかったこと〔特に江戸後期以降〕であるように思う。今日、大阪を巡ってみて、改めて感じるのは、過去の深みのある文化は今は一生懸命探さなければならないほど小さな痕跡になっていることである。もちろん、だからといって卑下悲嘆する必要はない。その解決策もやはり過去にあるからだ。
(もちろん何も古典の教養を無理して身につけることを言っているのではない)

(P202)
●江戸時代の大坂商人は「天下の台所」に住む自分たちは日本で最も優れた文化を持つべきだとする自負を持っていた。そこで様々な習い事に身を入れた。中流の町人でも、茶の湯・花道・香道・日本の古典・謡曲程度の教養は身につけていた。…当時は花道は奥様の趣味ではなく、男の嗜みであった。このような大阪商人の生き方は、江戸の町人のそれと異なるものであった。江戸の豪商といえば、…紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門を思い浮かべる。彼らは、巨万の富を築き、吉原の遊郭でお大尽遊びをした。…大阪人ならそのような度を過ごした無駄遣いはしなかったろう。そして、とことん利益を追求するより、程々に金儲けをして文化を求めた。…
→さすがにこのへんは著者の大阪びいきが強すぎる感じがする。
→落語「稽古屋」は職人階級(おそらく棟梁クラスが中心〕が女性に持てるキーアイテムとしていろんな音曲の稽古をした当時の様子が描かれている。「寝床」もそうで、特に大正期には義太夫が流行した。大阪は文楽の本拠地だったので、ことのほかブームだったようだ。先日入った「大阪歴史博物館」にも帰宅後のサラリーマンの稽古の様子が展示してあった(ただし、あの博物館全体に言えることだが、説明文が薄くて観客に展示の趣旨が伝わりにくいうらみがあるが、これは閑話休題〕。

●商人に学問を広めた三宅石庵→懐徳堂(大阪淀屋橋・今橋4丁目)
享保9年(1724年)、大阪の町は大火によってほとんど焼き尽くされた。その時、大阪の有力者は災害によってすさんだ大阪人の心を明るくするために文化事業を行なおうとした。そのため、彼らは当時は尼崎と言われた大阪の中心地に、大掛かりな学校をつくった。
※古代は海人(あま・漁民)が住んでいた岬なので尼崎(あまがさき)

●町人の塾が(幕府に)公認されたのは初めてだった(享保11年・1726年)。町人は高度な学問を身につける場はなかったのだ。寺子屋は子供の手習いと軽く扱われていた。しかし三宅石庵は幕府公認をそれほど喜ばなかった…町人のために質の高い教育の場があれば、形式上のことはどうでも良いと、彼は他人事のように語ったという。…石庵は士官を求めなかった。彼は「反魂丹」を売って生活していた。…懐徳堂の塾則には、「書生のまじわりは、貴賎貧富を論ぜずに、すべて同輩としてふるまうように」とあった。
●大阪人の風流ごのみの気質にもとづく学問を愛する気持ちが懐徳堂を支え続けた。江戸にも京都にも、特定の学派に偏らず庶民に実用的学問を教える有力な学校は生まれなかった。懐徳堂は明治2年(1869年)まで続いた。そしてそこは常に大坂町人の学問の中心であった。
●塾では、それまでの儒学で卑しいこととされた商行為を「聖人の道」であると説いた。空理空論を唱えるより、人々の生活をより豊かにするように励むべきだというのだ。金儲けは自分のためだけにするものではない。商売で集めた金を、多くの人を救う有効な事業に充てるべきだとも言われた。

(P151)
●元禄時代の大坂の繁栄がかげりを見せ始めた頃、心学が広まった。これは大阪の経済が低成長期に入った中で、人々が精神的な深みを求めたことによる
(P209)
●ところで、懐徳堂の学問より更に日常生活に深く関わったものが心学である。
●文明がいくら進んでも「堪忍」と「律儀」という江戸時代の大坂の人々が重んじた生き方は、大切にしたいものである。…大坂商人の「堪忍」を重んじる倫理の元をたどると、心学に行き着く。それは、18世紀初めに京都の石田梅巌(梅岩)が始めたものである。梅巌は、儒学、仏教、神道、道教などの説を取り入れて、町人に対して世渡りの方法を説いた。…梅巌が商業の必要性を強く主張したことが重要である。かれは、武士の商人蔑視を正面から批判した。
「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」

(P211)身分制度の不条理が生んだ思想
●徳川吉宗は「堪忍」の政治を行った人物として当時の人々に慕われた。しかし、「堪忍」の中身を見ると、吉宗のそれは大坂商人のものに比べてかなり自分勝手な解釈に基づくものとなる。かれは…その場しのぎのごまかしをすべきでないことを強調し、政治上の課題はどれほど苦労しても根本的に解決せよと教えた…。しかし、この言葉は将軍の地位にあってはじめていえる…
※吉宗の「堪忍」は贅沢を控える程度のことが「堪忍」になってしまう。これは「ならぬ堪忍」とは言えない。


一介の町人あらば、筋の通らぬことと知りながら、商取引などで相手との妥協点を見つけなければならない…そうしたとき、自分の思い通りにならなくても「堪忍」することになる。
●江戸時代の町人の「堪忍」は、第一に「士農工商」という言われない身分制度から来る差別に耐えることであった。…実際には武家社会で一人前にふるまうためには、たいそう気配りが必要なのだが、そんなことは大坂の町にいる限りわからない。大坂には、地方から遊びに来て思い切り羽目を外す武士が多く見られた…
→上方落語には、江戸落語の「たがや」「巌流島」「首提灯」に代表されるような武士とあからさまに対峙する噺はみかけない。「胴斬り」にしてもいきなり無礼討にされるが、武士に対して江戸の「首提灯」のように啖呵の鮮やかさが際立つわけではない。一方で、「井戸の茶碗」や「雛鍔」「目黒のさんま」「妾馬(めかうま:※妾が使えないので、NHK向けに八五郎出世と改題された。※大西信行氏も言っているが、それにしても野暮な演題だ)」のような武士を肯定的に描く噺も見当たらない。これはやはり大坂での武士の数が少なく、リアリティがなかったこともあろうが、一方で、他の文献にもあるが、大坂の豪商の内部のヒエラルキーが武家社会を真似した封建的で硬直的だったことも起因しているのかもしれない。これについては、別の機会で改めて論じる。

●「商いは牛のよだれ」という言葉もある。細く長く堅実に店を続けていくことが町人の誇りだというのだ。大儲けしてお大尽遊びをしようと投機に手を出すことは、最も好ましくないと考えられた。
→落語「莨(たばこ)の火」は、上方で珍しく元禄時代の紀文並みにお茶屋で小判撒きをする噺である。これまで多くの演芸評論家は、上方落語屈指の「大ネタ(ブリネタ)」としてこの噺を挙げてきた。しかし、先代の染丸師匠が遺した録音を聞いても、評論家諸氏が言う「奥行き、スケールの広さ」は申し訳ないが感じ無かった。これは演者によるというよりも、著者が述べるように、大阪の商家がもともとギルド的な閉鎖性を持ち、出過ぎたことを自重するシステムになっていたとすれば、もともと、噺として上方の気風にさほどそぐわない、やりにくいところがあり、それを無理なく聴かせるのに相当の力量を必要としたため、結果的に大ネタになってしまったという背景があるのではないか、と推測している。第一、「莨の火」の主人公は食野(めしの)佐太郎という実在の泉佐野の豪商で紀州徳川藩や岸和田藩を上得意にしていたが、あくまで大坂ではなく和泉国の商人であり、また紀州いうことで紀文の代わりにモデルに設定されたのではないか、と思っている。
※もっとも現実の食野家は、楠木正成を遠祖に持つと言われ、今の大阪市街に有していた膨大な不動産の経営や海運業を本業としていた。泉佐野身は今も、彼らが有した「いろは四十八蔵」という数多くの建物を持っていた。
http://www.sanomachiba.jp/about1.html

●ところが、江戸時代末になると、武家の勢力が衰え、商人が誇りが持ち始めてくる。天保6年(1835年)に(懐徳堂の)中井竹山が出した次の教えが伝わっている。「堪忍のなる堪忍が堪忍よ。ならぬ堪忍せぬが肝心」かれは「堪忍」の大切さは知っていたが、町人が必要以上に卑屈な態度を取るべきではないと言っているのだ。まもなく明治維新の四民平等の時代が訪れ、中井竹山のような考えが当然のものと受け取られるようになっていった。
→当初の「堪忍のなる堪忍が堪忍か、ならぬ堪忍するが堪忍」から「堪忍のなる堪忍が堪忍よ。ならぬ堪忍せぬが肝心」への変遷。この意識の変遷にこそ、長州の奇兵隊を始め、武家社会の崩壊をソフトランディングさせ、明治維新にスムーズに移行できた鍵があるのかもしれない。